宮城県作業療法士会

お知らせ

及川 恵孝先生を偲んで

2021.05.07

                             一般社団法人宮城県作業療法士会
                                 監 事 上遠野 純子
                                 東北保健医療専門学校

 このように早く、及川先生とお別れするとは思ってもみませんでした。いや、正確には、昨年末からLINEが既読にならないので、ある程度、それを覚悟はしていたのですが、それを受け入れたくない気持ちのほうが強かったのかも知れません。令和3年2月21日に及川先生の訃報の一報を聞いたときの私の率直な感想です。
 「元気になったら、また仕事に復帰しようと思うんだ。臨床家はやはり、臨床に出ないとね。電話の(先生ご自身の)声、いい声でしょう。」と昨年の事業監査および会計監査の際には、そのように明るく話をされておりました。コロナ禍であったことからそれぞれの自宅にて資料の写しをもとに、意見を出し合い監査を行った時には、「(県士会の)みんなは本当にがんばっているよ。会員900名を超える時代だよ。自分たちの時とは大違いだ。」と若い会員の県士会活動を、本当に褒めておられました。一方で、本当に私が見落としてしまっていた内容を細かくチェック頂き、昨年度の監事意見を作成できたことが昨日のことのようです。

1、県士会活動での思い出
 及川先生は、1983年宮城県作業療法士会草創期から事務局長を長く務められ、当時の秋藤一夫会長を陰で支えておられました。私が直接先生とお目にかかることになったのは、香山明美先生が県士会会長になられた1997年からで、私もその年から、県士会理事をさせていただくことになりました。県士会の理事会の際には、眼光鋭く意見を交わす先生のご様子には、私などは近寄り難い印象が当時はありました。しかし、先生と近しくお話が出来るようになったのは、1998年、第9回東北作業療法学会の学会長であった及川先生が実は、スポーティーな印象とは裏腹に実にユーモアセンス溢れる方で、実行委員会の際にも、学会の打ち上げの際にも当時、私たちまだ若い会員に気さくに声をかけて下さったことからであったかと思います。また、常に周りに気を配っていただき、学会の打ち上げの際に全員で撮った写真では、先生は学会長であったにも関わらず列の端で、笑顔を浮かべられておられる写真に、先生の心もちが伺われます。

2、第44回全国作業療法学会での思い出
 2010年に全国作業療法学会を仙台に誘致した際に、佐藤善久学会長から私は学会の実行委員長として、また及川先生は学会の運営部長として、学会運営の要を担う役割を、それぞれ拝命しました。当時東北厚生年金病院の技師長であった先生は、おそらく病院内での業務もお忙しかったと思いますが、学会運営のための人員配置やその役割についての確認のために、多くの時間をその運営のあり方の議論に費やしていただきました。当時の私の勤務先も厚生年金病院に近かったこともあり、ひとり職場での悩みなどを相談に伺った時も、いつも温かく迎えてくださいました。利用者との外来受診の際にも、よく顔を出して下さり、声をかけてくださいました。いつも変わらなかった明るい笑顔が忘れられません。

3、及川先生から引き継いだもの
 及川先生は、東北厚生年金病院を定年退職された後も、ご自宅から通える県南の病院・施設で、また福祉用具の活用のための県士会活動で、後輩の育成に精力的に取り組まれておられました。私が養成校の教員になった際にも、多くの励ましとお力をお借りし学生の臨床実習指導にも関わっていただきました。また、「農作業も楽しいよ。」と趣味と言っておられましたが、学生の臨床実習の訪問の際に、先生が収穫したお野菜などを頂いて帰ってきたこともありました。真っ黒に日焼けした先生のお顔には充実感と「まだまだ頑張るよ」という、先生が何事にも打ち込んで成し遂げるという気構えを感じ取ることが出来ました。監事をともに経験させて頂いたこの2年間は、先生にとっても病気との闘いであったと思います。「患者になって初めてわかったことがあるよ。だから、この経験を臨床に戻って生かしたいんだ。」とおっしゃっておられました。LINEには先生からの応援メッセージとスタンプがいっぱい今もならんでいます。私たちが先生を励まさなければならなかったはずなのに・・・。及川先生、今年の監査意見書は何とか一人で作成しましたよ。心配しないでくださいね。ゆっくり休んでください。本当にありがとうございました。

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